11/20 若年者も必要なホームヘルパー
介護保険と障害者介護の統合がとりあえず先送りになりそうな公算。考え方はわからないわけではないが、若年層から保険料を巻き上げよう、という発想が先行しているのが見え見えで、若年層の社会保険不信は増大しそうな考えだった。
税ではなく、社会保険制度なので財政問題は大事だが、選挙に行く中高年への負担を増やしたくないからと、失業やニートなどの問題がぎっしり詰まっている若者から富を収奪することでよいのだろうかという感覚がつきまとう。
介護が必要なのは、「障害」だけなのだろうか、という疑問もある。父子家庭や、産褥期には、家事がどうにもならない家庭はいっぱいある。社会的な障害といってもよい。若年者のそうした切実なニーズを考えにも入れないで、ただ被保険者だ、いずれ年取るのだと、保険料徴収しても、年金で取られ、医療で収奪され、そして介護まで、という感覚にならざるを得ない。
統合にあたって、第1に、障害者介護のニーズをきちんと明確にすべきだ。
現在の支援費制度のもとで、障害者介護のニーズがどこまで表に出るかということを計る必要がある。支援費制度になって、従来の役所の裁量でホームヘルパーの利用を制限したり、障害者施設の入所先を一方的に決められなくなった。それによって、家族介護や、社会参加の抑制などで潜在化していた障害者介護が、今表に出てきている。障害者が社会参加をし、障害者以外の人と同等の社会生活を過来るためには、それがどれだけのニーズになるのか、はっきり見極めることが必要だ。
統合にあたって次に必要なのは、保険料を払うのが若年層に拡大される、ということから、障害以外の、若年層が必要とする介護給付を整備すべきだ。例えば、シングルマザー、シングルファザーの家庭の家事介護、2週間から1ヵ月の産褥期のヘルパーなど。
高齢者はちょっと足が動かないと、ヘルパーさんが派遣され家事やリハビリをやってもらえるのに、若年層はどんなに困っても自助努力となっている。自助努力にも限界があることはある。最近は家政婦事務所も減って、お金を出しても頼めるところすら少ない。
産褥期の家事、実家の支援が現在はなく、多くは、実家の支援に頼っている。それがない場合は、夫が休暇でも取らないと生活が破綻するのが実態だ。
それから、シングルファーザーの場合、職場の要請で家のことを優先するわけにいかず、家事がめちゃくちゃになって家庭が深刻な事態に陥っているケースが多い(森田、川野「日米のシングルファーザーたち」(ミネルヴァ書房)参照)。
介護保険料を取るなら、これくらいは制度化してほしい。負担と給付の割合からすれば微々たる話だと思う。
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コメント
はじめまして、Gatoと申します。
黒川さんのページを見て、いやー、がんばってるなーと思い、明日も仕事だ、でも眠れない。webでブレストをさせていただく非礼をお許しください。
82年、学生運動でしゃかりきになっている頃、とにかくわれわれのテーマは反差別(そして反権力)でした。このプリンシパルは基本的に変わっておりません。当時は身体障害者の介助は健常者の義務そして連帯と思い、とにかくいろいろな方を対象に週3回くらいやっていました。当時は身体障害者はバスに乗ろうとすると乗車拒否をされる、乗せろ、乗せないの小競り合い。87年頃までそんな調子で、今のバリアフリーなどという概念は存在しませんでした。就職して回数を減らしつつも、98年まで続けてました。
障害者運動のひとつのメルクマールは、「国連障害者の10年」でした。以前は電車に乗るときも、階段で「おねがいしまーす」と叫び続けると、善意の方々が車椅子を担いでくれたものです。今、鉄道でもバスでも、車椅子用のエレベータ、または駅員さんが全部やってくれる。まあ、良し悪しは別として。これを「バリアフリー」と呼んでいる。
しかし知的障害者、精神病者に対する偏見と社会的バリアーは未だものすごいものがあります。DPI(障害者インターナショナル日本支部)の政策研究集会に参加しました。ようやく街に車椅子の方々が出るようになった。しかしまだベットで街に出る障害者を見ることはありません(病者は悲惨な事件が起こるたび、レッテルが貼られ、ますます敬遠されていく)。高齢者のための介護保険に、障害者団体が一本化する、これについてはDPIでは様々な議論がありました。障害者の既得権が危ぶまれるからです。しかしDPIは「今は健常者だ、障害者だと区別する時代ではない」国の福祉政策が抜本から改変されている時代に、「先駆者たる障害者の参加によって、介護保険の保障を拡大する」という大方針を打ち立てました。そこで、当然問題になるのは保険料と給付の関係です。昨日、政府税調は大増税の方針を出しました。増税→景気低迷という構図は目に見えてます。黒川さんの言うとおり、税をいい加減にしておいて、更に社会保険にまで不信感を仰ぐ、その通りです。それはとにもかくにも、一体税を何に使うのか、そのプライオリティーをきちんと説明できる政治と、市民運動側からはただ「金をよこせ」という姿勢からの脱却が不可欠です。
ちなみに私が長年介助していた腐れ縁のDr.Fが、「福祉開発研究センター」というNPO法人を立ち上げています。私もまだ挨拶に行っていないのですが、「ウェルウェーブ通信」でその活動が紹介されています。
Dr.Fは、脳性麻痺で四体不自由です。養護学校を卒業したのち、障害者施設で長年暮らしていました。しかし、まず「自立生活をしたい」という志で、われわれ学生を集め(1日24時間を2交代)やりくりをしていました。風呂、トイレはもちろん、食事つくり→食事介護。掃除洗濯はかなり手を抜いてましたけど。そのときに支給されていた介護料は時給にして300円(だったように思う)。私たちは在宅ケアにもっと支援を!とともに闘ってきました。
97年、在宅ケアが大変注目される中、Dr.Fは生活保護でただ金に縛られて生きるのはもうあきあきしたようです。今はNPO法人で大活躍し、おそらく生活保護は打ち切られていると思います。
あ、本題から外れてますね。介護保険導入の際、高負担高給付なのか、低負担低給付なのか、随分議論されました。ところが某J党が議論をないがしろにし、財政難で新新ゴールドプランも棚上げ、税でやろうが社会保険でやろうが、市民の理解どころか社会常識を超えた政策になってしまい、怒り心頭です。
黒川さんには、われわれの世代と高齢者、障害者の連帯という大きな視野に立って、がんばってくれればいいな、と思います。
まだまだ言いたいことはたくさんあるけど、また今度投稿します。
投稿: gato | 2004.11.26 04:23
gqtoさんコメントありがとうございます。
介護保険導入時の高い理想、市民や在野の団体が初めてといってよいぐらい国民生活に根ざす制度づくりにかかわった実績、そういったものがもっと普遍化できれば、と思うことは多く、当然障害者介護もいつかは、こうしたかたちで制度設計がされることを期待しています。
財源論はほんとうに難しいのですが、私は、もう、もらっているだけの福祉、もらっているだけの社会というのに、多くの人は眉唾をつけて見始めていると思っているのです。
だから、ある程度しっかり税や社会保険料をとってでも、高齢で要介護になったり、障害で要介護になったり、あるいはシングルファーザーのように社会的な制約で要支援になったりする場合に、きちんと給付がいきとどいて、人権の保障されない、人生に可能性を奪われない、私のかかわった障害者が言うところの「すべての人が納税者になれる社会」をつくっていかなければ、などと考えています。
これからもいろいろご指導やご指摘をください。また今回のように豊かな経験談をお寄せください。
投稿: 黒川滋 | 2004.11.27 19:56